海石榴市の 八十の衢に 立ち平らし 結びし紐を 解かまく惜しも
海石榴市のいくつにも分かれる辻で、広場の地面を何度も踏みつけるようにして踊った時にあなたと互いに結び合った紐、この紐を解くのは惜しくてならない。
作者不詳(十二・2951)
問答歌
紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰れ
紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。
作者不詳(十二・3101)
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行き人を 誰と知りてか
母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してもよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申しあげたらよいのでしょうか。
作者不詳(十二・3102)
右の二首
現在の桜井市金屋付近にあった古代の市。ただし桜井市立埋蔵文化財センターの報告によれば、古代の泊瀬川の流路は今よりも南にあったとされるゆえ、海石榴市も今の金谷よりはもう少し南にあったか、あるいはその範囲が南に広がっていたかとも考えられる。
万葉集の時代には「つばきち」と呼ばれていたと思われるが、現在はこれを「つばいち」と訓んでいる※1。大和盆地東端を南北に貫く山辺の道に上ツ道、さらに南へと向かい明日香へと続く山田道、東は伊勢へと抜ける泊瀬道、そして大和盆地を東西に縦断し、難波へと続く横大路など、古代大和における重要路が交差する地に位置している。また、いくつもの道が交差するところから「八十の衢」とも呼ばれていた。初瀬川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝であったと考えられる。
冬十月に百済の聖明王、西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る
とは日本書紀(欽明天皇十三年)の記事であるが、世にいうところの仏教公伝を記したものとして有名な記事である。この欽明天皇の「磯城島金刺宮」が、海石榴市の南方のほど近い場所に推定されている以上、「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」はこの近辺の地において船より降ろされたはずだ。とすれば、釈迦仏金銅の像が我が国の大地を初めて踏みしめたのは海石榴市ということになる。
様々な道が交差したこのような場所は人が集うばかりでなく、言霊や精霊までもが集まりやすい場所であった。したがって祭祀も行われることもしばしばあったと考えられ、そのため聖なる樹木として海柘榴(「椿」の漢語的表記)が植えられていたのが地名の由来となったと考えられる。椿が聖なる樹木として認識されていたのは、冬にも葉を落とさない常緑樹であるがためであろう。古代人はそこに永遠の生命を感じ取っていたのだ。
なお、この地が人の集う場所であった以上、必然的に男女の出会いも多くあっただろうと推定される。歌垣※2。なども多く開催されたのであろう。上の海石榴市を詠んだ歌はいずれも歌垣にかかわってのものと思われるものばかりである。また日本書紀(武烈天皇即位前期)にも、海石榴市の歌垣のことが描かれているが、それは、あまりに悲しい影姫の物語※3である。
海石榴市をそのまま読めば「tubakiiti」となるが、この際下線部のように母音が連続した際にはいずれかの母音が脱落するのが古代日本語における傾向である。また元興寺縁起にも「將三尼等至都波岐市つばきち長屋時」とあることから、古代においては「tubakiti」と訓まれていたことが考えられる。現在のようにな「tubaiti」という訓みは、後になってからその音便形(イ音便)として派生した訓みであると考えられる。
男女が歌を互いに詠み合い、求婚などを行った場。「歌」を掛け合うことから歌垣(掛き)と呼ばれた。古くは日本列島に広く存在したものと思われ、風土記や万葉集では山や水辺、市などで行われた歌垣の痕跡が見られる。持統朝には中国から踏歌が伝わり、宮廷の行事としても行われた。続日本紀天平6(734)年2月には歌垣と呼ばれて、貴族の男女が列をなし歌ったとある。また、同じく続日本紀宝亀元(770)年3月にも歌垣とあり、男女が並んで歌舞したという記録が残る。時代別国語大辞典上代編には「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った」とある。
武烈天皇が皇太子だった時ころ、大臣平群真鳥が強大な勢力を誇っていた。真鳥は国政をほしいままにし、数々の無礼をはたらいていた。そんなある日、皇太子は物部麁鹿火の息女影媛を娶ろうとした。仲立ちを建てて皇太子は影媛にあたりをつけようとした。が、影媛はすでに真鳥の息子鮪と関係を為していた。影媛が「海石榴市(現桜井市金屋付近)の衢でお待ちします」と返事をしたので、皇太子は海石榴市におもむく。市ではちょうど歌垣が行われており、皇太子は影媛の袖をとらえ、誘いかけるが、そこに鮪がやって来る。そして二人の間に割って入って来たので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪と歌を応酬を行う。皇太子は鮪の歌により、鮪がすでに影媛と関係を持っていたことを知り、顔を赤くして怒る。その夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村はその相談を受け、数千の兵を率い平群を急襲し、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで出向き、鮪の最後を見届ける。驚き混乱した影姫の目には涙があふれたという(日本書紀 武烈天皇 即位前紀)。以下はその際に影姫の詠んだ歌と伝えられる2首である。
石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ もの多に 大宅過ぎ 春日の 春日を過ぎ 妻籠もる 小佐保過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉腕(モヒ)に 水さへ盛り 泣きそほち行くも 影姫あはれ
石上の布留を過ぎ、(薦枕)高橋を過ぎ (もの多に)大宅を過ぎ、(春日の)春日を過ぎ、(妻籠もる)小佐保を過ぎ、美しい食器には飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣きぬれて行くよ。影媛は・・・ああ
青によし 奈良の狭間に ししじもの 水漬く辺隠り 水灌ぐ 鮪の若子を 漁り出づな 猪の子
奈良山の谷間に、射殺された獣のように水がひた寄せる岸辺にひっそり斃れ水びたしになっている愛しい鮪よ。その屍を探し回り、あばき出すようなことはしないでおくれ、猪よ。