高屋
舎人皇子の御歌一首
ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手の 高屋の上に たなびくまでに
(ぬば玉の)夜霧がすっかり立ちこめた。(衣手の)遠く高屋のあたりの上を覆いつくしてたなびくほどに。
(九・1706)
高屋
所在は定かではないが、『延喜式』神名帳にある城上郡 「高屋安倍神社」(桜井市谷の若桜神社境内)とする考えが古くからなされている。
上の写真が、若桜神社へと上る階段である。近鉄桜井駅から南へ500mほど下った右手の小高い丘に鎮座する。高さは10mほど、上り詰めると下のような拝殿が目に入る。
拝殿の背後は高い柵に囲まれその姿を拝むことはできないが、2つの神殿が並んで配置されてある。そのうちの一方が高屋安倍神社というわけだが、実はこの高屋安倍神社は初めからこの場所にあったわけではない。
父老云昔在櫻井谷邑管内安倍松本山近移若櫻神社傍
父老云はく、昔櫻井谷邑管内安倍の松本山に在り、。近く若櫻神社の傍らに移る。
と大和志にはあり、桜井市史はこれを追認し、松本山の所在地について、 「もとは南方400mの字松本山」と述べている。この松本山は若桜神社の南400mという記述に従えば現在の桜井公園(桜井小学校の東)辺りになる。
一方、この高屋を現在の桜井市高家と推定する考えもなされている(万葉集注釈)。高家は多武峰の南西の斜面一帯を言う。
上の写真でいえば、中段に伸びる横雲の左3分の1の辺りが高家である。
歌中に「夜霧は立ちぬ 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」とある以上、一定の高度がある場所が想像されるが、前者の説による推定場所(松本山)ではいかにも高度が乏しく、この高家のほうがその歌意にふさわしいというのだ。
また、作者舎人皇子の宮が多武峰の近くにあったことから、その高殿=高屋であるという考えも近年提出されている(万葉集釈注)。確かにこの歌に歌われているのは「夜霧」。である以上、この歌が遠景を歌っているとは考えにくい。自らのいる高殿=高屋を覆うほどまでに夜霧が立ち込めてきた・・・と理解するのが穏やかなようにも感じられる。
コメント
舎人皇子さんのお歌はなんのてらいもなく実に素直な歌ですね。こういうの大好きです。
しかし「ぬばたまの」と「衣手の」を取り去ってしまえば、あまりにもシンプルすぎてつまらなくなるから、枕詞とはふしぎなものだとあらためて思いました。
「ぬばたま」は黒い珠だそうですから、「夜」にかかるのはよくわかるんですけど、「衣手」は袖の縁で「手(た)」の音を持つ地名にかかるというのはわかりにくい。文字に引っぱられてはいけないのかもしれませんが、理屈でものを考えがちな現代人としては、どうしても衣をまとった人の存在を意識しないわけにはいきませんよね。
枕詞に語調を整えるという役目があったことはもちろん想像できるのですが、昔のみなさんは黒い珠やら衣の袖などを連想せずに、ただ音を舌で転がしながらこの歌を味わっていたのだろうか……というのが無学なぼくの素朴な疑問です。アホなことをいって(笑)まことに申し訳ありません。
薄氷堂さんへ
>理屈でものを考えがちな現代人としては・・・
確かにそうですよね。私どもは高校の頃に、枕詞とは
と習いましたが、その頃はなぜたった三一文字しか使えない短歌でわざわざ意味をもたない五文字を入れなければならないのかと疑問を抱いたことを思い出しました。
その後、大学に入って、原初的には和歌に限らず、諺や神託などでも、神名や人名、地名にかかる例があるということを知り、それが本来かかって行く語を呪的にほめたたえる詞であったらしい事を学びました。しかしながら次第に呪性を失い、その意味もだんだんとわからなくなっていった結果、新たな解釈が生まれ、さらには単に声調を整えるための修辞なっていったと教わりました(万葉集はこの過渡期かなと思っています。柿本人麻呂などは新たに枕詞を創作していたとも言われていますが・・・。以降さらに形式的になっていったのはご承知の通り)。
この歌の場合は、やはり形式的な物で、単に「手」という音を呼び出すための歌の部分と考えるべき何でしょうが、下に続くのが「高家」という地名ですから、その地名を「呪的にほめたたえる詞」であった可能性も否定できません(ただしこの場合「ころもでの」がどんな意味で「呪的にほめたたえる詞」となるかは???です)。
あるいは・・・衣をまとった人の存在を意識しないわけにはいきませんよね・・・というお言葉に沿った解釈をするならば「高家=高殿」説をとり、その高殿に住む愛しい人の姿などを考えることも可能かも知れません。ただ、そういった可能性を秘めながらも口語訳は
としておくのが上品かと思います。